私が大学で研究している内容は、感性情報処理という部類に入ります。もう少し詳しく書くと、私のやっている内容は、文から書き手や登場人物のいわんとする感情を読みとるソフトウェアの研究なのです。この研究分野は割と新しいジャンルなので、まだまだ研究が始まったばっかり、といった印象を受けます。
こんな中、私はよく、昔行われたという人工知能の研究と失敗のことを考えてしまいます。昔の人工知能の研究というのは、人間のように考え、行動するソフトウェアないしハードウェアをつくるのが目標で、コンピュータを駆使すれば達成可能な研究だと信じられていました。しかし現在でいう人工知能といえば、人間のように、うまく問題を解決できるソフトウェアを指すようになりました。人間のように考えることと、人間のように上手く問題を解決するとは異なりますよね。明らかに前者の方が広義です。
人間のように考え、行動するのが不可能だ(いずれは可能となるかもしれませんが)と考えられるようになった理由は、これを実現するためには人間の行動パターン全てをソフトウェアで書き起こす必要があるからです。人間の行動パターン全てとはどのような内容でしょうか。人間の行動パターンは、私たちが生活している現実世界で起こりうる事象に対するものです。ということは、詰まるところ現実世界で起こりうる事象をもソフトウェアで書き起こすことが出来なければならないということ。これを人の手で書くなんてことは、果てしなく気の遠くなる話です。現実的ではありませんし、人の能力内の話なのかさえあやしくなってきます。
この話を踏まえると、感性情報処理というものも可能なのかと考えてしまいます。精度が荒い感性情報処理なら可能かも知れませんが、人間並みの感受性を表現できるソフトウェアを作るとなるとどうでしょうか。人の感受性はその人の過去の経験によって形成されていく。そう考えると、人が経験し、得た事をソフトウェアで表現できなければ高度な感性情報処理は不可能なのでは。
視点を少し変えます。人が様々なことを経験することによって、現実の事象への理解が深まります。ソフトウェアが事象を理解できれば、感性情報処理は可能かも知れない。事象を理解するためには意味解析が必要のように思います。しかしながら意味解析もまた、未だ研究段階の技術です。意味解析技術の熟成を待っているようでは論文は書けませんし…感性情報処理と意味解析、双方の研究をしなければならないかもしれないと思うと、眉間にしわが寄る思いです。楽しそうではありますけどね。
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