研究という物を始めて、早一年が経とうとしています。私は現在大学4年生 ですので、そろそろ卒業研究の発表が控えています。
そんな最中、最近研究内容が変わってきました。といいましても、一応広い目で見れば研究内容は同じですが、細かい点を見るとやっていることは全然違います。
私は"文章から感情を読み取る"ためのソフトウェアを作る研究をしています。感情を理解するプログラムを作りたい、と思うようになったのは、人工無能に触れてからです。現在MINAとKaguyaを私のサイトで公開していますが、KaguyaはMINAの後継であり、MINAはARISAを元に作成したプログラムです。これらの人工無能は辞書式といいますか、あらかじめ登録されている内容に応答するしか能のないプログラムであります。
それだけの能で、感情を理解できるかどうかは、検証していませんから100%出来ないとは言いたくないですが。ともかく現在研究では全く違ったアプローチをとっています。自然言語処理のツールはもちろん使いますし、他の必要と思われるリソース作成も行います。
リソース作成はいいのですが、感情を推定するために必要な規定といいますか、ルールのようなものが必要となってきます。例えば感情の種類。現在も研究室内で議論されています(私は私なりの考えで感情の種類は絞り込んでいますが)。種類を決めるにはどうするか?主観的に絞り込んだとしても、明確な理由がなければ、後々その種類では過不足が発生すること必至です。では理由付けを行うために心理学を勉強すればよいのでしょうか?おそらく良いと思います。が、我々は心理学というフィールドで研究しているのではなく、情報処理というフィールドで研究しているわけです。心理学を用いた感情の分類が、情報処理分野で一概に通用するとは限りません。ここでまた”通用するのだ”、という理由、根拠が必要となってきます。
研究室内の議論を見聞きしていて思うのですが、この理由、根拠がいまいち主張されておらず、にも関わらず、教授らはとりあえずやってみようというノリが見られます。時折深く追求する物の。対象としているジャンルがジャンルですから、深く追求しにくいのだと思います。専門は情報処理であるのに、研究の内容に心理学や言語が絡んでくると、どうしても手探りになってしまいがちなのでしょう。
私も手探りに研究を行ってしまいがちです。言い訳しますと、研究をするという姿勢はまだまだ身に付いているとは思っていません。去年の4月から、初めて研究という物をしているわけですから。何かと行き当たりばったりなところも有りつつ、先生や先輩の助言を受けつつ、という感じです。
そうこうしている間に卒業研究も終了しなければならない時期にさしかかってきました。研究の成果物はどれほどのものかというと、秋頃から大して変わっていません。しかし一応成果物があるならそれを発表すればいいのではと思ったりもしましたが、夏から秋にかけて行った研究は全く納得のいく物ではないため、むしろ発表したくありません。
なぜに秋頃から研究の成果が大して変わっていないのか、ということを考えますと、半分以上C++の勉強に費やしているところがあったような気もします。プログラミング言語の勉強に時間を費やしてしまったということを考えると、システムを作るためのプログラミング言語の選択を誤ってしまったのかと思ってしまいます。
代わりに、C++の力が付いたと思って辛抱するしかありません。プログラミング言語を使う力は付けようと思ってもなかなか付けられないですし。何かを作ろうと思わない限り、私の場合は勉強するモチベーションが出ませんから。
研究の成果が大して変わっていない理由として、他に下調べが足らなかったことが考えられます。先の心理学の話もありますが、研究の対象が対象ですから、専門分野以外もそれなりに把握、マスターしておく必要があります。それを見くびってたつけが回ってきた、とでも言うべきでしょうか。最近になって私は日本語を勉強しました。…なんだそりゃ、と思うかも知れません。何を勉強するんだと思うかも知れませんが、具体的には日本語の文法を勉強しました。自然言語処理のツールを使い、つまり形態素解析の結果を用いて、様々な処理を行うわけですが、どうも日本語の文法に関する知識が乏しく、自分の知識にのみ頼っていたため、研究がなかなか進まなかったように思います。同様に、心理学も勉強しなければならないでしょうが(これは以前多少なりと勉強しています)。
日本語の文法を勉強したおかげで、ここ数日で一気に研究が進みました。今行っている研究で、どんな知識が必要で、何を勉強する必要があるのかをきちんと理解、整理できる能力。これは大事だなと最近感じます。
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