先日の、大学の講義の一環として、感性情報処理についての発表を行ったわけですが。その中でも出てきましたが、感性に重きを置いた時代が時期に来るだろう、と言われているわけです。「感性の時代」とかふざけたフレーズをスライドに乗せる流れになったことは若干遺憾ですが(とかかたっくるしい言葉で書いたりして)。私としては、人間の感性をより刺激する物があふれる社会が来るという結論に達したわけでして。私の妄想も若干入っているかも知れませんが、感性社会についての文献を読んでみて思い至った考えです。私がやっている、文書からの感情推定を行う研究についても、人間の感性を刺激するための一手段として使えるという考えがバックにあるから研究しているわけでして。というかそういう理由付けをしていくことにしました(笑)。
現代は何かと合理的であり、利便性や簡潔さを求める傾向にあるように思います。友達と空想話で盛り上がるとき、将来人間は機械とプラグインできる機構を持ち、人間一人一人がネットワークの一ノードとして役割を担うようになり、人間というネットワークができあがる、という妄想話です。恐らく全くないという話でもないわけですが、そうなってくると、現在あるコンピュータとなんら位置づけが変わらなくなってくるような気がしてきて、生きている意味がわからなくなってきます。
経験未熟な、青二才な大学院生が思うことは、感性に重きを置かない社会は、人が死んだ社会になる、ということです。合理的、利便性、簡潔さ、を求めるならば、感性なんて邪魔でしかないでしょう。いちいち腹を立てるよりも、まず実行、一喜一憂してる暇なんてもったいないでしょう。しかし人間から感性がなくなったらどうでしょう?人は人でいる理由がなくなります。人が人でいるために、感性に関する研究が必要なのでしょうか?確かにそれはあるでしょう、現在我々には理解不能な理由による殺人などをみると。我々の感性では解釈しがたく、不快である事件が多発しております。合理的や、集団の持つ正義のためなら自爆、自殺も正義になりますし、なんらおかしな行動でもなくなります。非人間的な行動が許されるようになると考えます。
そのために、感性情報処理を研究しているのだと論文に書くわけにはいかないでしょう。ストーリーが壮大すぎで、空想的で、具体的な問題解決のストーリーでもないからです。なんせ工学自体が合理的で、利便性を求めるからです。合理的、利便性ばかりを求めては成らないと言っているものを、どうしてそれらばかりを求める学問に理解してもらえるでしょうか。
余談ですが、先日書きましたが、ディスカッションの際のしゃべり方が嫌だと感じる友人がいます。必要以上に、嫌に感じる否定の仕方が私には一番引っかかったわけですが。ここで、効率的にディスカッションをすすめるには、そのようなセリフを振りかけられても私が腹を立てず、的確かつ明確に意見を述べるのが最善でしょう。腹を立てちゃいますからね、私は。最善の方法を採るためには、私の感性は捨てるべきでしょう。極論を言えば、機械のようになれということです。
非人間的になりたくない、人間的でいたいというだけではただのエゴでしかなく、人間的でいるための研究なんてあまり支持されないかもしれません。目的が漠然過ぎます。人間的な社会を目指す、という名目だけで議論をすすめることを許される分野と、問題解決のためのより良い合理的かつ便利な方法を求める分野との境目を、いかにすりあわせていくかが、感性情報処理の研究を行っていく研究者として必要な課題であるかのようなことを考えた一日でした。
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